子供の頃に失ったものは大人になってから気が付くと言う話

自分がいい年齢になってきて、気が付くと仲の良い友人にかなりの割合で子供がいるということが普通になって来ました。子供がいる友人の話を聴いていると微笑ましいなと感じる反面、最近とある感覚が自分の仲に芽生えていることがわかります。

親っていう生き物は、こんなにも子供中心にものごとを考えているのか

ということ。友人達を見ていると有形無形に関わらずものすごく子供のことを考えているし、大事にしていて、生活も子供中心に回っている感じです。もちろん個人によって温度差はあるのですが、それでもすごいなと感じてしまいます。

そして、それと同時に自分の中に蠢き出すなんと言えない感覚、自分にはこれが無かったんだなという、ある種泣き言や愚痴とも言えなくも無い感情が生まれきます。

私は、父親が蒸発していなかったため、経済的にはかなり厳しい家庭の上、母親は私の将来や人生には全く関心の無い人でした。今振り返ると虐待と言えなくもない扱いを受けていたこともあります。

母親とは私の年齢が上がり、お金少しずつかかってくるようになると衝突することが増えました。学費などを払う払わないで一日中ケンカになったこともあります。

結局私は自力で家を出て、大学の学費や生活費は自分でなんとかしました。家庭環境を逆手にとって学費免除を勝ち取れたのは幸いでした。

正直、経済的に厳しいだけなら自分が働けるようになれば挽回出来るし、それをバネに頑張れるという人もいるのでしょう。ですが、周りの友人達が、いつも子供に払っている、注意関心、子供に寄り添ってあげている愛情溢れる姿を見ていると、自分にはこの時間が無かったのかと愕然とするのです。

もちろん、私の幼少期との時代背景や家庭によって差はあるのでしょう。逆に親の必要以上の干渉に苦しんでいる人もいるので、私だけがとはいいません。

ただ、幼いころに健全に愛情を注がれたかは、間違いなくその後の人生の生きづらさに影響すると感じています。いい歳になってもなんとなく、不安だったり、自分の生き方に自信が持てないのはこのことが影響しているのは間違いありません。

これは結構理解されづらいのですが、一般的にもいわゆる問題のある家庭環境で育った人が苦労するのは、実は子供時代よりも大人になってからのことが多いのだそうです。

子供の頃は、その環境が当たり前で疑問を持たないで育ちますが、それが家を出て外の世界を知った時に、社会とのギャップに苦しみ出すのです。この点は私の経験からももの凄く共感できる点です。

唯一の救いは私に子供がいないこと。

今の年齢になっても、パートナーが欲しいと思ったことはあっても、子供が欲しいと思ったことは一度もありません。それは自分の中にないものを人に与えることが出来ないということを本能的に理解しているからなのかもしれません。

それが良いことなのか、悲しいことなのかはわかりませんが。

今週の気になっている本

環境問題が世界的な関心時となっていますが、その先駆けともいれるのは、こちらの沈黙の春です。今では常識となっている農薬の害や自然界における生物濃縮の概念を最初に広めたのはこちらの本であり、世界な意識改革をもたらしました。

SDGsなどに興味のある人は読んでみる価値があるかもしれません。