ここのところ、身の回りで女性の知人・友人が結婚することが増えています。私の周りの女性の友人はバリバリ働いている人が多く、仕事上で呼び名が変わることに不便さを感じていたり、またパスポートや免許証の名前を変えるにに結構苦労しているという話をよく聞きます。
その上で、早く夫婦別姓が認められて欲しいという声も聞きます。こういう話を聞くと現在の女性は大変だなと感じると同時に、夫婦別姓って20年くらい前から言われている気がしてなんで話が前に進んでないのかななどと感じたりします。
ただ、私個人の意見としては、夫婦別姓だけでなく、根本的に戸籍とか家とかそういう古い制度そのものを見直したほういいと感じています。
結婚する予定のない私がいうのもアレなのですが、今だに結婚は家同士でするものだと考えている人が結構いるというのが驚きで、個人同士の問題ではなのになんで家同士なんて話になるのか理解できません。夫婦別姓の問題の本質もこのあたりにある気がします。
日本の場合、家という概念が制度的にも、観念的にも強すぎると感じています。ここのところ、ネットで日本でシングルマザーになると経済的に積むっていうことが話題になっていたのですが、これも根本的に子供は家で育てるモノという前提があるからそういう制度になっている気がします。
自分自身が母子家庭で、家という感覚が希薄な環境で育ったので、このことは肌身に染みてわかるのです。
日本では、嫡出子と非嫡出子の間に明確な差別があって、これも家とか戸籍の弊害だと感じています。子供の養育も、それは両親揃って健全な環境で育つに越したことはないけれど、どんな境遇で生まれた子供でも分け隔てなく育てることの仕組みがまだ日本には足りていない。
また、子供は両親揃った家庭で揃った家庭で育てるべきという社会通念が強過ぎた結果、虐待された子供を児童相談所で助けることが出来ないみたい事態も怒っている気がするのです。少なくともサピエンス全史などを読むと人類にはそうしていた時代もあった訳で。
この辺りも子供は必ずしも家だけで育てるのではなく、状況によっては社会全体や周囲のコミュニティで育てるということが一般的になるべきな気がします。
夫婦別姓の議論はそれら問題の氷山の一角に過ぎない気がするのです。
そもそも一部の武家だけのものだった、家や戸籍という制度が広く一般人のものになったのは、明治維新後の富国強兵政策で、国が家という単位で管理するために広めた手段。平成も終わり、令和という時代に不要なのは明らかなはずです。
もっと個人主体の制度に切り替えていくべき時がきているのは間違えない。私はそう感じるのです。
今週の気になっている本
文章を書いていてまだまだ自分にはまだまだ決定的に足りたないなぁと感じるのがこの言語化能力です。今回のこの記事もモヤモヤ気持ちがあって書いたのですが、表現したいことの半分くらいしか書けていない感じ。
言語化能力の向上は日々のインプットから。本書を読んで頑張ります。