人間の器って自己肯定感の大きさで決まる

器の大きな人間になりたいなぁと割と考えています。

40代になって、もうかなりいい大人のはずなのですが、相変わらず自分の人間としての器、度量のようなものが小さいと感じる場面が多々あります。なんというか大人の包容力的なものが欲しいななぁと感じるのです。

まあ 人としての器といっても、正直曖昧なものではあるのですが、それでも、周りを見渡すと確実のこの人は器が大きいなあと感じる人はいるわけで。一体自分との違いはなんなのだろうと嫉妬にも劣等感にも近い気持ちを持つときがあります。

これは、完全に個人的私見ではあるのですが、人間の器の大きさって、自己肯定感の大きさの差が影響している気がしています。

自己肯定感の揺るがない人は、不足の事態が発生しても、なんとなると考えて不要に動じないし、自分と違う価値観の人間と出会っても、人は人、自分は自分と受け入れることが出来ます。

いわゆる過剰なヘイトスピーチなんかもその多くは、根っこを辿るとヘイトする側の自己肯定感の低さみたいな部分があるのではないかと考えています。

ちなみに私はというと、自己肯定感が低いことは自覚しているので、いろいろと努力はしているけれど、今一歩自分に自信を持ちきれていないといったところです。素の自分に自信がないから、ついつい様々な活動をして、自分の存在意義を確かめるみたいな部分は少なからずあるのです。

まぁ ある程度は自分の奮起する上で役にはたっているのでしょうが。

自分への自信の無さを埋めるのは、結局のところ自分自身としっかり向き合う以外に方法がないと私は感じています。

自分の周りを見渡しても、その部分を、例えば、仕事や恋愛など、自分以外のもので埋めようとしている人って、あまり幸せになっていないように見えるのです。

恋愛なら、傷を舐め合うような形になりかねないし、例えばストーカーのようになってしまう人って、自分の自信の無さを恋人で埋めようとしているからそういう行動に出てしまうのではないかと。

仕事なら家族を犠牲にしたり、あるいや部下や従業員を不幸にしてしまうかもしれない。世の中のブラック企業と言われるような会社の経営者って、結構このタイプが多いのではないかと感じています。

総じて言えることは、深く関わった人が不幸になっているように見えるのです。

私も、子供ころの家庭環境が複雑だったので、未だにこの自己肯定感の低さを克服しきれていない部分があるのですが、それでも自分に関わってくれる人を不幸にしたくはないし、出来れば幸せになって欲しいです。

人間の器が大きいとは、結局関わった人が幸せになれるかなので、この部分は肝に銘じておきたいなと考えています。

今週の気になった本

自己肯定感の低い人って、じつは自分が自己肯定感が低いということにすら気がついていないので、こういう本って手にとらないんですよね。もし、少しでも自覚が生まれたら手に取って欲しい本です。

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