写真の師匠に撮影したポートレート写真を見てもらうと「人との独特の距離感がある」と言われます。確かに私はどちらかというと寄りの写真が好きで、引きの写真は撮っていてどこか落ち着かない気分になることが多いです。
写真には、その人が現れるというのも、師匠の言葉ですが、ひょっとしたらそうなのもかもしれないと思い当たる節があります。
私は、友達はかなり多いほうですが、正直未だに人との距離感というのがよくわかっていないところがあるのです。
そもそも人との距離感のベースって、一体どこで作られるかと考えると、ほとんどの人はやはり、幼い頃の親との関係性で作られるのではないかと感じています。ですが、私の場合はこの親との関係性がかなり複雑でした。
私の母親は、私を可愛がりする一方で、自分の機嫌しだい癇癪を起こすような人でした。おそらく、この経験が私の中で決定的に人との距離感を分からなくしている原因ではないかと感じています。だから私は心のどこかで人の顔色を伺ったり、拒絶されることを過剰に恐れるところがあるのです。
一方で、私が生まれ育ったのは北九州。一概に言えない部分もあるのですが、東京に比べると人間関係は濃厚になりがちだった印象があります。特に私が住んでいた門司港は、人口がどんどん減っていて小学校は1クラス。1年生で友達になった子とは、6年間同じクラスで過ごしていました。良い意味でも悪い意味でも、濃い人間関係が生まれる、かなり特殊な環境でした。
私の中には、この自分の中で壊れてしまっている母親との関係性と、九州人の独特の濃いめの人間関係が同居して、未だの混乱を起こしているような気がするのです。
結果として、一見友達は多く、日々充実しているように周りには見える反面、人の輪の中にあってもどこから阻害感を抱えているようなこじらせた人間が出てしまっているのです。
そしてそのことが、自分の写真に出てしまっている。そんな気がするのです。
人との距離間が曖昧な中で、レンズ越しに人に近づきたいとある種の親和欲求のようなものが寄りの写真が好きなことに現れているかもしれないと感じるのです。