言葉を綴らなくなったのは、写真で満たされるようになったからかもしれない

気がつけば、ブログを書く頻度が大幅に減っていた。2024年に入ってからは、数記事しか書いていない。以前は、何かをアウトプットしたくなったとき、自然とブログを書いていたのに、今はその気持ちが湧いてこない。

理由を考えてみると、思い当たることがひとつあった。写真を本格的に始めたことだ。

もともとは、ブログに載せる写真をもっときれいに撮りたくて、カメラを学び始めた。でも、気づけば「文章を書くこと」よりも「写真を撮ること」が自分の中で大きな存在になっていた。そして、写真を撮って公開すると、それだけで満足してしまい、そこから文章を書こうという気持ちが湧いてこなくなっていた。

ブログを書かなくなったのは、決して時間がなかったからではない。書こうと思えば書けるはずなのに、いざパソコンの前に座ると、文章を綴る気持ちが湧いてこない。

その理由を考えてみたときに、ふと気づいた。「写真を公開すると、それだけで満足してしまう」という感覚があることに。

ブログを頻繁に書いていた頃は、何かを伝えたいと思ったら、まず言葉が浮かんでいた。でも今は、写真を撮り、それを公開した時点で「もう伝えた」という気持ちになってしまう。かつて文章で伝えていたものを、今は写真が代わりに担っているのかもしれない。

さらに、写真には言葉とは違う自由さがある。写真は、見る人それぞれが自由に解釈できるもの。でも、そこに文章を加えてしまうと、自分の言葉で解釈を限定してしまう気がする。だからこそ、「写真を撮ったあとに文章を書く」という行為に、以前のような意欲を感じなくなっていたのかもしれない。

ブログは自分にとって言葉は最も自然な表現手段だった。思ったことや感じたことを言葉にすることで、自分の中の考えが整理され、はっきりとした形になっていく感覚があった。ブログを書くことは、単に何かを発信するだけでなく、自分自身と向き合う行為でもあったのだと思う。

しかし、カメラを本格的に始めてから、その感覚が少しずつ変わっていった。言葉ではなく、写真で伝えることに慣れていくうちに、「これで十分だ」と思うようになったのかもしれない。写真には、それ自体で完結する力がある。言葉を使わなくても、構図や光、色の選び方ひとつで感情や空気感を表現できる。

そして、写真の持つ「余白」に魅力を感じるようになった。見る人によって解釈が変わる写真の世界は、言葉で説明しないからこそ広がりを持つ。一方で、ブログを書くという行為は、ある程度自分の意図を明確にすることでもある。その違いが、知らず知らずのうちに「言葉をつけること」への抵抗につながっていったのかもしれない。

写真を撮ることで、言葉では伝えられないものを表現できるようになった。それは間違いなく大きな変化であり、自分にとって新しい表現手段を手に入れたことは嬉しいことだった。

しかし一方で、ブログを書かなくなったことで、自分の中で何かが失われていくような感覚もある。かつては言葉を綴ることで、自分の考えや感情を深く掘り下げることができていた。写真は一瞬を切り取ることに優れているが、言葉のように「考えを整理し、形にする」役割は果たしてくれない。

そう考えると、写真と文章はどちらか一方ではなく、どちらも必要なものだったのかもしれない。今は写真が中心になっているけれど、だからといって言葉を手放す必要はない。これからも、自分にとって心地よいバランスを探していきたい。

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