【読書レビュー】ヒトは「いじめ」をやめられない〜いじめはヒトの本能

私は子供のころは少し変わった子供だったようで、いじめにあっていた時期があります。だから感情的にはいじめは許せないです。

ですが、そんな私ですら、時には自分と異質な相手に対して、排他的になったり、攻撃的になったりすることがあります。いじめとは人間の本能に刻まれた性質で決して「いじめはいけません・やめましょう」などといってなくなるものではないのです。

ヒトは「いじめ」をやめられない (小学館新書)

ヒトがいじめをやめて、マイノリティに対しても優しくなるためには、いじめや差別をただ悪いモノとして扱うのではなく、人間の本質の一部として向き合う必要があると感じてます。

いじめは人が社会を作る上で必要な装置だった

そもそもなぜ人はいじめをしてしまうのか。それは、人、すなわちホモサピエンスは身体的には他の動物より劣る中、集団を作ることで生き残ってきた動物だからです。そして、集団を維持するためには、共通の価値観や規範が必要になります。

外敵以外で集団を形成する上で一番恐るべきは集団を内部から破壊してしまうフリーライダーです。ヒトの脳には、属する集団の規律のそぐわないヒトを見つけると制裁行動に出る機能が本能的に植え付けられているのです。

特に日本人の場合、農耕中心の平和な江戸時代が300百年近く続いたいた歴史があり、この中で集団の結束力が醸成されて来ています。それは日本企業に強さにもつながったけれど、負の側面として集団外のヒトに対して排他的な社会を創り出したのです。

そして、私には最近の日本社会がその性質によって自分の首を自分で絞めているようにも見えるのです。

集団は理性を鈍化させる

マスメディアでは、連日、企業や学校の中での「パワハラ」「セクハラ」、その他マイノリティの人々への差別的な言動が取り上げられています。一歩引いて、一般的な常識と照らし合わせても何でなんでそもまで酷いことになったのだろうと感じるものもあります。

実は、ヒトは集団の内部では理性が鈍化するというデータがあるそうです。

特に日本の場合、集団を維持しようとする「向社会性」が強く、社会的なモラルよりも集団を中での身の安全を優先する傾向があります。このため、学校でのいじめの通報や、企業内での不正に対する内部告発も発生しにくいのです。

違いを認める社会を創る

「いじめ」や「セクハラ」「パワハラ」の問題の多くは、社会の進展に人間の脳の一部が古い本能を残しているからだといえなくもありません。今の時代、集団に属していないと生きていけないという訳でもないのですから。

私は、いじめを無くそうというスローガンは意味がないと感じています。どちらかという「いじめは常にあるもの、必ず起こりうるもの」というところからスタートすることが大事なのです。

集団の中ではいじめはいつでも起こりうるという前提で、それを乗り越えるためのコミュニケーション能力、特に日本人の場合は自分は高であるという主張をきちんとできる、いわゆる「アサーティブネス」を身につけることが最重要なのです。

今日のアクション

大正時代の詩人金子みすずの「みんなちがって、みんないい」という詩が大好きです。今こそ、もう一度この詩の意味を見つめ直す必要があるのだと感じています。