僕が議論をするのが苦手なのは反抗期がなかったからかもしれない

この年になって常々感じるのですが、自分と意見と違う人と話を詰めて行くのが苦手です。苦手といっても、決して表面的に人の話を聴けないとか、あからさまに他人を排除するということではなく、きちんと話をしながら折り合いをつけていけていくのが苦手という意味です。

意見の違う人とぶつかった時に、私の場合、100%受け入れるあるいは100%拒否するの二択になりがたちで、相手ときっちり議論して落とし所を探るというのがうまく出来ないのです。この根本的な原因は、意見の違う相手と話すときにどうしても相手の存在(人格)と意見(思考)を切り離なくなってしまうから。

なぜかと自分の人生を振り返ると多分自分には反抗期みたいな時期がなかったからじゃないかなと考えるようになっています。

最近、反抗期がなくてずっと、親と仲がいい子供がいると言われています。ただ、私の場合はそいういうケースとはかなり違います。

義務教育を終えて、高校に入学すると公立の学校とは言え、それまでに比べて急にお金がかかるようになってきました。入学金や、教科書代、さらに進学校だったので模擬テストの代金と何をするにもお金が必要になります。

そして、その一つ一つが必要になるたびに、毎晩親と払う払わないで言い合いになっていました。当時、私は奨学金をもらっていて、それを家に入れていたこともあり、お金のことをきっかけに、親が根本的に自分に関心をもっていないことに気付いてしまったのです。厳密には、以前からうすうす感じていたことに、このときに確信を得た感じではあるのですが。

一般的な反抗期が親子の愛情や信頼関係があった上で、衝突するものだとすれば、私が親と言い合いになっていたのは、お金を払う払わないというただの金銭問題でしかなく、そこに愛情も信頼関係も存在しません。これは反抗期の衝突とは本質的に別のものなのでしょう。でしょうと言うのはそもそも本当の反抗期がどんなものかよく分からないからですが。

いわゆる一般的な反抗期というのは、親から見た子供など、存在(人格)を受けれた相手と衝突することで、これは、相手の存在に経緯を払いながら、異なる意見に対して議論をする、いわゆるアサーションを行う上でベースになる体験だと感じています。

でも、この体験が薄い私にとって、意見の違う相手と話すときにどうしても相手の存在(人格)と意見(思考)を切り離しにくくなってしまうのです。だから議論の結果が0か100になってしまう。

これからの時代は多様性などといいながら、自分にはその素養がないなあと感じているし、家庭環境で失ったモノは取り返しがつかないとも感じているのです。

今週の気になっている本

お金に対してはこの時に経験があるので、大人になった今でもネガティブなイメージが心のどこかにはあるのかもしれません。それが正しい認識ではないこともわかっているので、きちんとお金に対する正しい知識を入れる努力はしないといけないと自覚はしているのですが。