代わりはいくらでもいる世界で愛をさけぶ

ブログを書き始めた頃、悩みのタネは自分の個性がないということでした。何の実績も、日々書くようなネタも見つからない、すなわち自分は個性がないと感じていました。

そこからブログを続けて9年の月日が経ち、その間に電子書籍がヒットしたり、コミュニティ活動でいろんなイベントでスタッフをやってり、自分でもイベントを主催したりと、さすがに自分に個性がないという感覚はこの9年を通して無くなった気がします。

ただ、個性があるからといって、それが唯一無二の存在かと言われる全くそんなことはないと断言出来ます。一時期、ブログ界隈では、交換可能でない人間になろうとも言われていました。

交換可能であるという言葉から産まれるイメージは、サイボーグ的で意志を持っていないような感じを受けます。恐らく組織で働いた経験のある人なら、少なからず自分が歯車であると感じたことはあるはずなので、交換可能でないという生き方は、それを日々感じている人達に向けた発せられたマーケティング的なメッセージなのしょう。

以前、私もこの言葉に憧れていた時期があります。自分だけの生き方を探そうというのはとても甘美に聞こえるものです。

ですが、一周回って周りを見たときに、この社会で生きている限り唯一無二の個性を持った交換可能でない人などいないと感じるのです。

例えば、今勢いのあるYoutuberさんをみても、旅行にしろ、料理にしろ、沢山の人が重複したテーマを扱っていて、一人いなくなってもわかりにそのポジションを取れる人はいるし、芸能人などはどんなに人気があってもスキャンダルがあれば一発退場のような状態です。でも、それでも番組の放送は続きます。

結局、唯一無二などという存在はいないのですまぁ ノーベル賞くらいの偉業があれば別かもしれませんが)。もうちょっと突っ込んでいうと自分の代わりなんて世の中いくらでもいて当たり前なのです。

むしろ唯一無二でならないといけないという思い込みが帰って自分を苦しめてしまう気さえしてしまいます。自分の代わりなんていて当たり前、だから目の前で起こっていることを大事にしようくらいのほうが精神衛生上はいいかもしれない。

最近は、そんな風にも感じるのです。

今週の気になっている本

ITの世界では、市場価値の高いエンジニアになろうなんて謳い文句がよくあるわけですが、市場価値という言葉自体が労働力は交換可能であるという前提もとで成り立っているわけで。よく考えると怖い言葉です。

本書では一流のエンジニアとはどんなものを著者の経験から書いているのですが、最近よくあるAI人材みたいな書き方をしていないので好感が持てました。