極端な意見は目立つけど信用できない

ブログを始めた頃、自分には何も尖ったところがないことが悩みの種でした。何の特徴も個性もない自分が情報発信して何になるのか。そんなことを割と考えていました。情報発信する上では、わかりやすく尖っている人間が好まれると言われていますが、自分にはそれがないなと。

ただ、情報発信を9年続けて感じるのは、わかりやすく尖った情報は多くの人に広まる可能性を秘めているけれど、多くの場合どこか事実を歪曲していたり、大事なところを省略していることが多いと感じています。

例えば、尖った情報発信をしている人が、実際は言っていることとやっていることが全く違うとか、自分を大きく見せているけれど、実際の性格は真逆なんてことはよくあるわけで。

世の中、物事というのはそんなに単純ではないのです。

実際、物事を決めるときには0か1かだけで判断できることなどなく、0から1の間にある繊細で無数にある選択肢を見つけて選べる人が物事を前に進めることが出来るはず。ただ、それでは、多くの人には届かないというジレンマを抱えていると感じるのです。

一時期ネット界隈で言われていた会社員はダメだ、フリーランス万歳みたいな風潮も、そもそもどっちがいいなんて人による、状況によるといいようがないのですが、今回のコロナ禍の中、一気に崩れてしまった感もあります。

選挙などもみてもわかりやすいメッセージを発信している人が逆に怪しいくらいに見た方がいいのかもしれないと最近感じるのです。

今週の気になっている本

なんとなく最近感じていたモヤモヤを言語化してくれている本を見つけました。なんとなく世の中の風潮を見ていて感じるのは、特定の専門分野だけに詳しい人というのは、これから流行らないというか、主流派の考えではなくなる気がするのです。

世の中が複雑化する中で、ある分野の問題がほかの分野の常識のようなことで解決することが増えてくるのではないか、そしてより専門知識だけでなくは総合力が求められるのではないと感じているのです。