悲劇の主人公を手放すのは覚悟がいる

たまにブログで書いているのですが、私は子供のころかなりお金のない家で育ちました。母子家庭であったのもあるし、母親はある社会不適合者みたいなところがあり、働きに出ても長続きせず、勤め始めてもすぐに辞めてしまう、あるは辞めさせる人だったので収入は安定していませんでした。

そんな家庭環境が原因で、学校の友達にいじめられることもあったので、子供心に僕の母親はいじめられているとか、うちの家は目の敵にされているという意識が生まれていきました。当時、テレビで人気があったハウス名作劇場の悲劇の主人公のような気持ちが自分の中で気が付かないうちにいたのです。

私の場合、学校の成績はそこそこ良かったため、その後いろいろな人達の支援もあって、奨学金を借りることが出来て(返すの大変だったけど)、国立大学に入ることも出来て、今のところ人並みに働いて生活が出来ています。

本来なら、逆境を跳ね返したということは自信を持つべきところなのですが、私の中にはモヤモヤしてものが残っています。それは、心のどこかにある悲劇の主人公を返上することへの抵抗感。悲劇の主人公であることが心のどこかで自分のアイデンティに一部になっているのです。

大人になってからも無理あり悲劇の主人公に見立てて奮起するようなところがあり、例えば仕事で難しい状況に追い詰められている自分とか、なかなか返済が終わらない奨学金を返している自分のような、どこか、そんな自分の人生のマイナスの要素を無理くり見つけ出して自分が窮地にたっているような気分に浸って来たのです。

大人になってからは、私より苦労している人などごまんといるし、苦労した分結果を出している人もいる。そういう人自分を比べて、月並みな私はどこから後ろめたさを感じてしまうことがあるのです。こころのどこかで、私も悲劇の主人公でいなければならないのではないかと感じてしまうのです。

それなりに仕事があり、収入があり、当面のお金に困っていないという平凡であることも難しくなりつつある時代の中で、そこそこ恵まれた状況にあることに対して、どこか生きている実感がわかない、あるいはアイデンティの喪失のような感覚があるのです。

自分がいろんな意味で大人として成熟していくには、過去の体験を捨てて、この悲劇の主人公という自己認識を手放して、一から始める必要がある気がしています。

ですが、子供のころにした強烈な体験に根ざす感覚を果たしてそんな手放すことが出来るのか。またそれが出来たとして私のアイディティは何ももとに作られるのかと考えると、悲劇の主人公である自分を手放すというのは覚悟のいることだろうと感じるのです。

今週の気になっている本

分人という言葉を本書で始めてしりました。まだ、読んでいる途中ですが、人のアイデンティや人格がそもそも一つではないということを書かれています。言われれば自分に中にいくつもの自分がいるのはある種当たり前のことなのかもしれません。

性善説と性悪説で人をくくってしまうこと事態ナンセンスなのです。