社会に対話する場が少ないから分断は結構深刻なのかもしれない

明日は、衆議院選挙の日ということで、私も午後から予定があるので朝イチで投票して来るつもりです。

ただ、選挙に立候補する議員さんの公約や主張なんかをみつつ感じるのは、想像以上に有権者に考えていることは伝わってないなということ。これってなぜかと考えると、日本の社会って対話する場がないからではないかと考えています。

立候補する人達は、自分の公約は主張するけれど、投票する側の疑問に答えるような場はありません。

まぁ 選挙という限られた期間でのことなので、仕方ない部分はあるのですが、別に選挙期間で無くても、国会答弁なんかを見ていてもきちんと質疑の場で相手の質問にきちんと答えている場面ってもの凄く少ないです。

相手の意見をきちんと受け止めて、それに対して異論を言う。

ただ、これだけのことが出来ている人あるいは場というものが極端に少ない気するのです。

例えば、私は個人的には選択的夫婦別姓には賛成だけれども、それを頑なに拒否している政治家の人達がいます。

ただ、選択的夫婦別姓に賛成している大多数の人も、彼らがなぜ反対しているのか、何か理由があるのかということにはあまり興味を示さず、ただ封建的だ、男尊女卑だとステレオタイプに断じているだけのことが多いです。

本来なら、賛成反対の前にこの部分を掘り下げるべきのはずです。

ここにについて結局対話が成り立っていない。これはいわゆる分断というヤツだと感じるのです。これは会社の上司と部下、高齢者と若者など、あらゆるところで起こっているように感じます。

多様性を認めるというのは、自分と違う考えや立場の人と対話をして理解しあうことが大前提のはずなのですが、今の社会の状況を見ると、受け入れるというより黙殺するに近いことのほうが多い気がするのです。

なぜ、このようになってしまったかと言えば、日本人の国民性みたいなものもありますが、先生の言うことは何でも絶対だから言うことを聞くのが良い子であるという教育の問題が大きいのではないかと感じています。

そもそも自分と異なる意見や立場の人と対話するというのは、相当に高いコミュケーションコストを要します。自分と異なる意見を述べる相手に対して、感情的な反発を抑えつつ、きちんと内容を受け止めて、論理的に精査した上で返すわけです。しかもそれを何往復も繰り替えすわけです。

しかも多くの場合、その双方の間には、先生と生徒、顧客と業者のような力関係があることが多いです。そして、ディベートのような相手を論破することがゴールではなく、相手を理解することが目的です。

これは、私自身も含め、権威者の言うことは理不尽でも従いなさいという教育を受けていた人間にはなかなかに難しいことだと感じるのです。

この問題を個人の取り組みでどうすることは出来ないけれど、少なからず身近な人とは対話することを心がけようと、私は考えています。そしてその上でとりあえず明日は自分の一票を投票してこようと考えています。

今週の気になっている本

とつらつらとここまで自分が最近感じていることを書いたのですが、同じようなことを感じている方がいるようです。まだ、読んでいないので、さっそく明日から読んで行くことにします。