いじられキャラは天涯孤独な自分の防衛本能なのかもしれない

私は、よく友人からいじられキャラだと言われる。どこのコミュニティに顔出しても、最終的にはだいたいいじられキャラのポジションに落ち着くことが多い。そして、気がつくとそのコミュニティの中心の近い位置にいて、いろんな人に声をかけて貰えることが多くなる。気がつくと顔が広くなっているのだ。

私が周りから人脈があると言われるのは、だいたいこのパターンでいろんなコミュニティに溶け込んでいくからだ。

正直、もっと若い頃はいじられキャラとして扱われることにかなり抵抗があった。自分の中に被害者意識のようなものがあって、いじられるイコール馬鹿にされていると感じてしまうことが多々あったからだ。

だが、年齢を重ね、いじられキャラと言われつつ、私が困っている時に力を貸してくれる友人も増え、今はこの性格で救われている部分がかなりあると感じている。

しかし、私自身はいじられキャラになろうとして振る舞ったことはほとんどない。気がつくと、そのように周りから勝手に言われることが増えていた。

自分はなぜこのような性格になったのか、昔はしっくり来なかったが、ある程度年齢を重ねとくるとなんとなく仮説が立てられるようになってきた。

おそらく自分がいじられキャラで、人脈(あまり好きな表現ではないが)がある理由は、防衛本能なのではないかと感じている。

私は天涯孤独の人間だ。肉親と呼べる人はいない。

母子家庭で育ちものごころついた時には父親はいなかったし、一人っ子で兄弟もいない。唯一の肉親と言える母親は、根本的に私のことに興味がなかった。私は事実上、大学に入る時に縁を切る形で家を出ている。大学の学費や生活費は、バイトや奨学金でまかなった。大学時代は多少遊んでいた時期もあり、結果生活費のために借金も出来てしまったが、その後就職して奨学金も含め全て返済した。

肉親がいないことに関して、子供ころからそれが当たり前であった私にとって、ある時期までそれが大きくな問題だと感じたことはなかった。人は誰もが誰にも頼らず一人で生きるものだという意識がどこかにあったからだ。

そんな、自分のもの捉え方が大きく変わったのは30歳の時に、仕事のトラブルで鬱になったことがきっかけだった。

幸いそこまで酷い症状ではなかったけれど、仕事が出来ない。身動きがとれないという状態を経験した。そして、休職を余儀なくされたことにより、会社で培ってきた人間関係というのは、こういう時に何も役に立たないということを肌で感じたのだ。

それまで会社人間だった自分は、会社の外に友人などほんのわずかしかいない。そういう交友関係の作り方などしようとさえしていなかったのだから当然だ。

そうこういう時、普通は実家に帰って療養するというのが一般的な対応方法なのだろう。

しかし、自分にはそもそも帰る家などない。

ただ、ひたすらに嵐のように襲い来る不安感、焦燥感を一人で向き合うしかなかったのだ。これがもう少し重い症状であったなら完全にアウトだっただろう。

投薬で朦朧とする頭で私は考えていた。

何かに所属している自分とではなく、自分そのものと付き合ってくれる人を作らなければ生きていけない

この後、私は積極的に会社以外のコミュニティに参加して、友人を数多く作るようになっていった。

恐らくこの考え方は、このときに生まれはものではないのではないかと感じている。それまでも潜在意識の深い部分、防衛本能とも言えるくらい深いレベルでこの考えを持っていたのではないかと今は、考えている。

そして、そのことこそが、私のいじられキャラという性格を形成しているのではないかと考えるのだ。

今の私は、人に顔が広いとか人脈があるとか言われることがあるが、それの状態が成立している理由は私がいじられキャラであり、いろんな人にかまって貰えるからだ。

もし何かあっても、力を貸してくれる友人がたくさんいるという感覚は、少なからず私の生きる力になっているのだ。

だが、それでももし私が死んだら、誰か骨を拾ってくれるだろうかとかは今でも考えるし、例えば長期入院を要する大きな病気になってしまえば、もうアウトかもしれないという恐怖感は折にふれ襲ってくる。

パートナーを見つけて結婚すればよいではないかと言われるが、私にはそういう相手は今のところいないし、そういうものを求めてパートナーを探すのは相手に失礼なのではないかという感覚もある。

自分でこうやって書いても、やっかりな星の下に生まれてしまったと感じる。もうちょっと普通の家庭に生まれていれば良かったと思うことは多々ある。しかし、私はそれでも自分の人生を引き受けて生きるしかない。

そんな私にとって残された貴重な武器の一つがこのいじられキャラという性格なのだと思うのだ。