写真を撮り始めて3年目。ハマっている理由を考えた

写真を本格的にはじめて、今年で3年になる。自分でもよく続いているほうだと思う。

なぜ自分がここまで写真にハマっているかというと、写真は自分の快不快を感じ分けるのに最適だからではないかと分析している。

昔はよくブログにも書いていたのだが、少し前の自分の悩みは、物事を俯瞰しすぎてしまい、あれもあり、これもありを突き詰めていった結果、自分が好きなもの、嫌いなものがはっきりしないことだった。

そして、これが自分の中での決断力の欠如に決定的繋がっていた。私の場合、眼の前に選択肢があるとき、ひとつひとつの選択のメリットとデメリット、リスクとリターンを分析して並べることまでは割りと用意に出来る。

しかし、そこから選択するという行為が極端に苦手なのだ。

これは最終的な自分の感覚、それが快か不快かということが自分自身よくわからない、あるいは鈍いということに起因していると思う。

少し前に知り合いのカウンセラーの方が、人の気持ちがわからない人というのは、自分の気持ちがわかっていない人いわれていたが、私もそのような状態に近いと思う。

そんな私にとって、写真を撮るセレクトするという行為は、その鈍っている感覚を取り戻すために絶好のトレーニングのように感じるのだ。

被写体と向き合い、シャッターを押す、その瞬間、自分の中には、それが心地よいか、不快かの選択の連続になる。自分の中の感覚だけが頼りになるのだ。

もちろん、ちまたには、写真撮影のハウツーは存在するわけだが、そんなものは結果にしか過ぎない。自分が心地よいと感じた写真が結果、ちまたの写真のノウハウと合致することはあっても、逆はないのだ。

そして、セレクトと現像の作業。撮影現場では、うまく取れたと感じた写真も見返すと違った印象になる。デジタルの時代だから、写真は何枚も撮れている。その大量の写真の中から、また自分の中の快、不快を仕分けていく作業が始まる。ここにも明確のロジックはあまりない。ひたすら自分の感覚と向き合うのだ。

写真は、選択の芸術だと言われているらしい。選択とは孤独な作業だ。

だが、これが良い。今まで使うこなかった感覚器を研ぎ澄ましていくような感覚。たまにある自分で撮影した写真でありながらも、その美しさにハッとするような瞬間。これが写真の醍醐味であり、また自分という人間の感覚を取り戻すことにつながっている気がするのだ。