写真の現像は答えのない問いに答えるようで苦手だ

今週から10月。写真を本格的に始めてちょうど半年が過ぎようとしています。最近学んでいるのは、現像。Lightroomを使って、あーでもないこーでもないとRowで撮影した写真の明るさや色味を変えてみています。

これが楽しいという人もいるのかもしれないけれど、正直、写真が出来るまでのプロセス中では一番苦手意識を感じる部分です。というのも、恐らく一番センスが問われるし、正解がない部分だからなのかもしれません。

あれもありな気がするけれど、コレもありな気がして全く作業が進みません。

たまに書いているのですが、子供のころは母子家庭で家庭環境が貧しかったため、とりあえず目の前の進める公立高校、国立大学と将来の進路を深く考える前に限られた選択肢の中でいけるところを選ばざる得ないという人生を送って来ました。主体的に自分の進路を選択した経験はほとんどありません。

ここしか道がないから、そこにいけるように背水の陣を引いて頑張ったり、我慢したりすることは割と出来るのですが、主体的に自分の進み易い道を選んで進むというということが出来なくなっていたのです。

結果として、20歳をすぎたくらいになってからある程度選択肢のある状態の時に、自分にとって何が最適かを選ぶのがものすごく苦手になってしまいました。これは、のちの就職活動等の時に私をかなり苦しめることになりました。

例えば人生において、どの仕事を選ぶとか、どういう人と結婚するみたいな問題は、ある程度のセオリーはあるにしても、本来正しいかどうかは自分の内側にしか答えがない問題のはずなのに、未だに人の意見にされてしまい判断出来ないことがあります。自分の中に判断基準を持てないのです。

現像の作業をしていると時々、それと同じような感覚に陥る時があります。この部分は、明かりが暗いほうがいいのか、それとももっと明るいほうがいいのか。肌の色はもっと、黄色が強いほうがいいのか。肌のしわは見えないようにするのがいいのか、それとも少しくらいは見えたほうがいいのか。

結局のところ、判断基準は自分の内側にあるはずの審美眼を信じるしかないのですが、どうもそれがブレブレになってしまう。自分の判断基準に自信が持てなくなることがよくあるのです。

以前読んだ書籍「13歳からのアート思考」において、芸術を学ぶというのは自分なりのものの見方を学ぶことと書かれていました。

私は偉そうに書評のような記事も書いていて、アート思考だ、なんだかんだと言っていた訳ですが、こうしていざ写真と向き合ってみると、それが一番苦手なのは自分なのだと、身につまされているのです。

今週の気になっている本

写真を学びはじめて改めて表現するということ全般に興味を持つようになりました。ブログを10年近くちづけているのですが、いつの間にか慣れが生まれてそういうことに疎くなっていたかもなぁと感じています。文章も写真も私の大事な表現の一つなので、改めて見つめ直していこうと考えています。